第10条 忿を絶ち瞋を棄てて、人の違うを怒らず
第10条 怒りを捨てて、人が間違ってても腹を立てたらあかん
十に曰く。忿を絶ち瞋を棄てて、人の違うを怒らず。人は皆心有り。心は各執有り。彼是なれば則ち我非なり。我是なれば則ち彼非なり。我必ず聖にあらず。彼必ず愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、誰か能く定むべき。相共に賢愚なること、鐶の端無きが如し。これを以て彼の人瞋ると雖も、還って我が失を恐る。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同に挙ぐ。
第十条はな、「忿を絶ち瞋を棄てて、人の違うを怒らず」っちゅうことやねん。これは、怒りを捨てて、人が自分と違う意見を言うても腹を立てたらあかん、っちゅう意味や。
人間っちゅうのは、みんなそれぞれに心があるもんやろ。その心は、それぞれに自分なりの考えを持ってるんや。相手が正しいと思うことは、自分には間違いに見えるかもしれん。自分が正しいと思うことは、相手には間違いに見えるかもしれん。
でもな、自分が必ず聖人やというわけやないし、相手が必ずあほやというわけでもない。
みんな同じ凡人なんやで。
正しいか間違いかなんて、いったい誰が決められるんやろな。
お互いに賢いとか愚かとか言うても、それは輪っかみたいに始まりも終わりもないもんや。
せやから、相手が腹を立ててても、むしろ自分の方が間違うてるんちゃうかと心配せなあかん。自分だけが正しいと思うても、みんなの意見を聞いて、一緒に決めるのが大事なんや。
ワンポイント解説
第十条は寛容の精神と相対主義的認識論を提示した条文で、十七条憲法の中でも特に哲学的深度を持つ内容である。「忿を絶ち瞋を棄てて」は感情的対立の克服を、「人の違うを怒らず」は価値観の多様性への寛容を説いている。
条文の核心は人間の認識能力の限界に対する謙虚な自覚である。「我必ず聖にあらず、彼必ず愚にあらず」は絶対的な知識や判断の不可能性を示し、「共にこれ凡夫のみ」で人間の平等性を確認している。「是非の理、誰か能く定むべき」という問いかけは、真理認識の困難さを哲学的に表現している。「相共に賢愚なること、鐶の端無きが如し」の比喩は、賢愚の相対性を円環の無限性で表現した秀逸な表現である。
現代的観点では、多文化主義や多様性の尊重という価値観の原型として評価できる。また、「衆に従ひて同に挙ぐ」は集団的意思決定への参加と合意形成の重要性を示しており、民主主義的プロセスの萌芽として理解される。認知科学の知見と照らし合わせても、人間の認知バイアスや確証偏向への警戒として解釈可能である。現代社会における多様性の受容、対話による合意形成、感情的対立の克服といった課題に対して、太子の提示した原則は依然として有効な指針となっている。
この条文は、太子さんの人間観がよう表れてる、とても深い内容やと思うで。1400年も前に、こんなに相対主義的で寛容な考え方をしてはったなんて、ほんまにすごいことやと思わへん?
「我必非聖、彼必非愚」(私が必ず聖人でもないし、相手が必ずばかでもない)っちゅう部分は、特に印象的やな。これは、自分の考えに固執せんと、相手の立場も理解しようとする謙虚な姿勢を教えてくれてるんや。
現代でも、SNSとかで意見の違いから炎上したり、政治的な対立で感情的になったりすることが多いやろ。そんな時こそ、この第十条の精神が大事やと思うんやでな。
太子さんは、「從衆同舉」(みんなの意見を聞いて一緒に決める)とも言うてはる。これって、民主主義の考え方にも通じるやろ。多数決だけやなくて、お互いの意見を尊重しながら、みんなで話し合って決めるっちゅう、とても進歩的な考え方やと思うで。
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