おおさかけんぽう

法律をおおさか弁で知ろう。知らんけど

第5条 欲を捨てて、裁判は公正にしなはれ

第5条 きょうよくてて、訟訴しょうそあきらかにべんぜよ

第5条 欲を捨てて、裁判は公正にしなはれ

第五条はな、「饗を絶ち欲を棄てて、訴訟を明らかに辨めよ」っちゅうことやねん。これは、贈り物やわいろに惑わされんと、裁判を公正に行いなさい、っちゅう意味や。

人民の争いごとは、一日だけでも千件もあるんやで。一日でもそんなにあるのに、年月が経ったらどんだけになるか想像してみ。最近は、裁判を担当する人が、利益を得ることばっかり考えて、曲がったことを真っ直ぐやと言うて、都合のええ話だけを聞いてるんや。

そやから、お金持ちは海に塩を投げ込むように簡単に問題を解決できるけど、貧しい人は石に水をかけるように、どうしても解決できへん。こんなんやと、貧しい人は訴える場所がのうなって、家来としての道もおろそかになってしまうんやで。

いわく。きょうよくてて、訟訴しょうそあきらかにべんぜよ。それ百姓ひゃくせいうったえ一日いちにちせんあり。一日すらしかり、いわんや累歳るいさいをや。このごろしょうおさむる者、るをつねとし、まがれるをただしとし、便宜べんぎちょうく。これをもっとみめる者はしおの海におけるごとく、まずしき者はみずいしとうずるがごとし。これをもっ貧民ひんみん告訴こくそするところなし。しんみちまたここにおいてく。

第五条はな、「饗を絶ち欲を棄てて、訴訟を明らかに辨めよ」っちゅうことやねん。これは、贈り物やわいろに惑わされんと、裁判を公正に行いなさい、っちゅう意味や。

人民の争いごとは、一日だけでも千件もあるんやで。一日でもそんなにあるのに、年月が経ったらどんだけになるか想像してみ。最近は、裁判を担当する人が、利益を得ることばっかり考えて、曲がったことを真っ直ぐやと言うて、都合のええ話だけを聞いてるんや。

そやから、お金持ちは海に塩を投げ込むように簡単に問題を解決できるけど、貧しい人は石に水をかけるように、どうしても解決できへん。こんなんやと、貧しい人は訴える場所がのうなって、家来としての道もおろそかになってしまうんやで。

ワンポイント解説

今でいう「司法の公正性」について書いてあるんや。太子さんの時代でも、お金や権力を持ってる人が有利になって、普通の人が泣き寝入りするっちゅう問題があったんやな。これは、いつの時代でも変わらへん、人間社会の大きな問題やと思うで。

「饗を絶ち欲を棄てて」っちゅうのは、贈り物やわいろを受け取らんと、欲深い気持ちを捨てなさいっちゅう意味や。当時の裁判を担当する役人はな、訴訟の当事者から「これを受け取ってくださったら、有利に裁いてください」っちゅう感じで、贈り物をもらうことが多かったんや。そういう賄賂が横行してたから、お金持ちは簡単に裁判に勝てるけど、貧しい人は正しくても負けてしまう、っちゅう不公平な状況やったんやな。

太子さんは「一日に千事」って言うてはる。これは、毎日千件もの訴訟があるっちゅう意味やけど、実際にそんなに多かったんかどうかは分からへん。でも、それぐらいたくさんの争いごとがあったっちゅうことは確かやろな。当時の争いっちゅうのは、土地の境界線の問題とか、誰が税金を払うべきかっちゅう問題とか、そういう身近な問題が多かったんや。

「富める者は塩の海におけるが如く、貧しき者は水の石に投ずるが如し」っちゅう例えは、とても印象的やろ。お金持ちは、海に塩を投げ込むように簡単に問題を解決できる(海はもともと塩辛いから、塩を入れても何も変わらへん)。でも貧しい人は、石に水をかけるように、どうしても解決できへん(石は水を吸わへん)。この例えで、経済格差が司法にどれだけ影響を与えるかを、太子さんは的確に表現してはるんやな。

現代でも、裁判官の独立や公正な司法っちゅうのは民主主義の基本やろ。太子さんは1400年も前に、もうそのことに気づいてはったんや。「法の下の平等」っちゅう考え方も、この条文の精神から生まれてるんやと思うで。お金持ちも貧乏な人も、権力者も一般市民も、みんな平等に扱われる社会を目指してはったんやな。

「貧民告訴する所なし。臣の道また焉において闕く」っちゅう最後の部分も重要やで。貧しい人が訴える場所がのうなったら、家来としての道もおろそかになってしまうっちゅう意味や。つまり、司法が公正やないと、国全体の秩序が崩れてしまうっちゅうことやねん。役人の仕事っちゅうのは、ただ法律を執行するだけやのうて、民衆が正義を求められる場所を守ることやと、太子さんは考えてはったんやろな。うちは、この第五条が、日本の司法制度の理念を示した、とても重要な条文やと思ってるんやけど、知らんけど。

第五条は司法制度における公正性と廉潔性を重視した条文である。「饗を絶ち欲を棄てて」は収賄の禁止を明確に示しており、古代における司法倫理の確立を目指している。訴訟件数の多さ(一日に千事)から当時の社会的紛争の実態が窺え、司法制度整備の必要性が背景にあったことが理解できる。

条文は当時の司法の腐敗を具体的に批判している。「利を得るを常とし」は司法官吏の営利追求を、「曲れるを見て直しとし」は判断の歪曲を、「便宜に牒を聴く」は恣意的な証拠採用を指摘している。特に「富める者は塩の海におけるが如く、貧しき者は水の石に投ずるが如し」という比喩は、経済格差が司法アクセスに与える影響を的確に表現している。

現代的意義としては、司法の独立性、法の下の平等、司法アクセスの保障といった近代法の基本原則の萌芽を見ることができる。太子の時代における階層社会においても、司法の公正性への要求は普遍的価値として認識されており、これは現代の司法制度改革や法曹倫理の議論にも通じる重要な視点である。社会正義の実現には経済的弱者への司法アクセス保障が不可欠であるという認識は、現代の法律扶助制度の理念的基盤となっている。

今でいう「司法の公正性」について書いてあるんや。太子さんの時代でも、お金や権力を持ってる人が有利になって、普通の人が泣き寝入りするっちゅう問題があったんやな。これは、いつの時代でも変わらへん、人間社会の大きな問題やと思うで。

「饗を絶ち欲を棄てて」っちゅうのは、贈り物やわいろを受け取らんと、欲深い気持ちを捨てなさいっちゅう意味や。当時の裁判を担当する役人はな、訴訟の当事者から「これを受け取ってくださったら、有利に裁いてください」っちゅう感じで、贈り物をもらうことが多かったんや。そういう賄賂が横行してたから、お金持ちは簡単に裁判に勝てるけど、貧しい人は正しくても負けてしまう、っちゅう不公平な状況やったんやな。

太子さんは「一日に千事」って言うてはる。これは、毎日千件もの訴訟があるっちゅう意味やけど、実際にそんなに多かったんかどうかは分からへん。でも、それぐらいたくさんの争いごとがあったっちゅうことは確かやろな。当時の争いっちゅうのは、土地の境界線の問題とか、誰が税金を払うべきかっちゅう問題とか、そういう身近な問題が多かったんや。

「富める者は塩の海におけるが如く、貧しき者は水の石に投ずるが如し」っちゅう例えは、とても印象的やろ。お金持ちは、海に塩を投げ込むように簡単に問題を解決できる(海はもともと塩辛いから、塩を入れても何も変わらへん)。でも貧しい人は、石に水をかけるように、どうしても解決できへん(石は水を吸わへん)。この例えで、経済格差が司法にどれだけ影響を与えるかを、太子さんは的確に表現してはるんやな。

現代でも、裁判官の独立や公正な司法っちゅうのは民主主義の基本やろ。太子さんは1400年も前に、もうそのことに気づいてはったんや。「法の下の平等」っちゅう考え方も、この条文の精神から生まれてるんやと思うで。お金持ちも貧乏な人も、権力者も一般市民も、みんな平等に扱われる社会を目指してはったんやな。

「貧民告訴する所なし。臣の道また焉において闕く」っちゅう最後の部分も重要やで。貧しい人が訴える場所がのうなったら、家来としての道もおろそかになってしまうっちゅう意味や。つまり、司法が公正やないと、国全体の秩序が崩れてしまうっちゅうことやねん。役人の仕事っちゅうのは、ただ法律を執行するだけやのうて、民衆が正義を求められる場所を守ることやと、太子さんは考えてはったんやろな。うちは、この第五条が、日本の司法制度の理念を示した、とても重要な条文やと思ってるんやけど、知らんけど。

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