第11条手柄と過ちをちゃんと見極めて、罰と褒美を正しく与えなはれ
第十一条はな、「功過を明察して、罰賞必ず當てよ」っちゅうことやねん。これは、手柄と過ちをちゃんと見極めて、罰と褒美を正しく与えなさい、っちゅう意味や。
最近は、褒美が手柄に対してちゃんと与えられてへんし、罰も罪に対してちゃんと与えられてへん状況になってるんや。仕事を担当してる偉い人たちは、賞罰をもっとはっきりさせなあかんで。
今でいう「人事評価」や「成果主義」について書いてあるんや。太子さんは、頑張った人はちゃんと評価して、悪いことをした人はちゃんと責任を取らせなあかん、っちゅうことを言うてはるんやな。「功過を明察して、罰賞必ず當てよ」っちゅうのは、手柄と過ちをちゃんと見極めて、罰と褒美を正しく与えなさい、っちゅう意味や。
でもな、太子さんは「日者、賞不在功、罰不在罪」って言うて、当時の実態を批判してはるんや。「最近は、褒美が手柄にちゃんと対応してへんし、罰も罪にちゃんと対応してへん」っちゅうことやねん。つまり、頑張った人が評価されへんで、悪いことをした人が罰せられへん、っちゅう不公正な状況があったわけや。
例えばな、当時の役人の中には、コネや縁故で出世する人が多かったんや。有力な豪族の親戚やったら、大して仕事してへんでも重要な役職に就けた。逆に、どんなに優秀で一生懸命働いても、家柄が低かったら評価されへんかった。また、罰についても、権力者に気に入られてる人は、悪いことをしても見逃されて、権力者に嫌われてる人は、たいしたことしてへんのに厳しく罰せられた。そういう不公平なことが、しょっちゅうあったんやな。
太子さんは、そういう状況を変えようとして、「執事群卿、宜明賞罰」って言うてはる。「仕事を担当してる偉い人たちは、賞罰をもっとはっきりさせなあかんで」っちゅう意味や。つまり、客観的な基準に基づいて、公正に評価せなあかんっちゅうことやねん。これは、現代の「成果主義」や「能力主義」の原型やと言えるやろ。
公正な評価システムがあると、みんなやる気が出るんや。「頑張ったら認めてもらえる」「悪いことをしたら罰せられる」って分かってたら、みんな真面目に働くやろ。逆に、不公正な評価ばっかりやと、みんなやる気をなくしてしまう。「どうせ頑張っても評価されへん」「コネがある人だけが得をする」って思ったら、誰も一生懸命働かへんようになるやろ。
でもな、現代では、厳し過ぎる成果主義の問題も指摘されてるんや。数字だけで評価されて、人間的な配慮がなかったり、短期的な成果ばっかり重視して、長期的な視点が失われたり。太子さんが言いたかったんは、「公正で透明な評価システムを作って、みんなが納得できるようにしよう」っちゅうことやと思うんやでな。
例えばな、冠位十二階っちゅう太子さんが作った制度は、まさにこの第十一条の精神を実現しようとしたもんやった。生まれや家柄やのうて、能力や功績で役人の地位を決める。ちゃんと仕事をした人は昇進させて、失敗した人は降格させる。そういう明確な評価基準を作ることで、役人たちのやる気を引き出そうとしたんやな。うちは、この第十一条が、公正な人事評価の重要性を示した、とても実践的な条文やと思ってるんやけど、知らんけど。
簡単操作